くだらない思考:人の存在性について

(この記事06.06.19執筆されました。)
自転車に乗りながらふと頭をよぎる思考。日常的にくだらないことはいつも考えているんですがたまには出力をば。


あるものの存在というのはある人が認識して初めてその人の「世界」に存在する。そして「世界」は人の数だけ存在する、という考え方があります。どこで拾ってきたかは忘れましたが時々触れることがあるのでよく言われていることなのかもしれません。とにかく私は昔からその考えを採用しています。
この「世界」単位の考えに則るといくつか特なことがあります。まず自分以外の他者の「世界」があるということを――その「世界」はブラックボックスのままですが――認識することができます。これはコミュニケーションの上では役に立つことで自分では理解できない考え方があったとしても、そういうものがあるのだとブラックボックスのまま認識しておくことで他者の「世界」(またはその一部)を自分の「世界」から拒絶し、その結果生じる他者との不必要な衝突を避けることができます。もちろん自分がそのブラックボックスの中の理解し得ない物に手を出したり、あるいはそのブラックボックスの中に自分の「世界」のもの(考え方)を無理に持って行こうとすると葛藤は生じ得ますがそれ以外の選択肢があると知っておくことが重要です(私自身、上手く実践しているとはとても言えないのですけれども)。ことさら、ありとあらゆる趣味のるつぼであるおたく文化においては生活上必須のものと思います。
もう一つは自分の「世界」と世界の「世界」(ここではあらゆる「世界」を内含する全体集合)が同じでは無い、部分集合であると認識することでファンタジー的な夢を見ることができます。例えとしては適切では無い*1ですが生まれつき光を知らない人にとっての光のように我々の知らない、未だ感知することができない何かの存在は否定できません。あるいは科学技術が捉えられるのは世界の「世界」の一部でしかないとみる考えとも言えます。


さて、本題。
ぶらぶら考えていたのは、ある人の存在の大きさというのはどんなものかということ。例えば儂なんぞはほんの一部の人達の「世界」に存在するだけで下手したら向かいの家の人の「世界」に存在するかだって怪しい。一方で架空の存在ではあるが、より多くの人の「世界」に存在するキャラクターと、どちらがよりよく世界に存在していると言えるのだろうか。今でこそ生きている人間の存在はそれだけで大きなものだがSF世界のように人間の存在が希薄になったら自分の存在意義について問うことになるかもしれない。


と、まぁ延々と稚拙な脳内を曝け出してみた訳ですがその時考えていたことを一言で述べるなら「ZUN氏*2ってすごいなぁ」です。(ぉ
一介の大学生であった人の頭から生み出されたものがこれだけ多くの人の「世界」に住まうようになるとは。人間の世界っておもしろいですね。

*1:この場合光は物理的に他の方法で認識することが可能。

*2:同人界隈で流行りのSTG作品の産みの親。個性的なキャラクター・世界観が人気を呼び、数多くの二次創作作品が作られている。